2020年7月24日

楽曲解説 『羅生門』 第2話 - 忍耐

前回述べたように、元々この曲はアルバムオープニングを飾るインスト曲として制作を始めた。理由は、私の好きなハードロックバンドの数々がよくアルバムで採っているスタイルだったからだ。つまり1曲目は歌なしのSE曲で、2曲目からガツンと勢いある曲が来る -これが演りたくてたまらなかったのだ。
ところが『羅生門』は、SE曲ではなく通常のメロディー曲としての歩みを始め、私は葛藤の中にいた。

しかし改めて考えてみれば、学園催はテクノポップユニットであり、ヴォーカルは女性である。ハードロックバンドが好んで採用する形式にこだわっても仕方ないと思い直した。むしろバンドカラーからすると、1曲目は普通に歌曲で始まるのが妥当とも思われた。そもそもオープニングSEから始めたとして、一体どれぐらいの人が良いと感じてくれるかも疑問である。自分の嗜好を一方的に押し出したところで、誰の心にも響かなければ意味がない…。
そうこう考えているうちに、サビのメロディーが出来上がってきているではないか。もうこれはおとなしく歌曲でいくしかない状況である。

我(が)を通せば、一時期は上手くいくかもしれない。だが、長い目で見ると必ず綻びが生じるものだ。ならばここは気を収めるために、自分は今修行しているのだ、と思うことにした。我を出さない修行、メンバーの意見やバンドカラーに合わせる修行、自己満足を控える修行の最中である、と自身に言い聞かせながら作業をしていった。

創作活動にも通ずる格言で、「自分のやりたいことをやれ」とか「本当にやりたいことだけを貫け」といったものがある。このような志を持つことは大切だが、周囲との兼ね合いを意識することが大前提だと考えている。特に音楽作品の場合、自分のやりたいことよりも、聴き手がどう感じるかを重視すべき局面が多々あるだろう。
もし仮に私が、これらの格言通りに信念を貫いてしまったなら、殆どの楽曲が派手なテクノサウンドで厳ついヘヴィーリフが炸裂し、ヴォーカルはエキセントリック、そして曲中の随所でサイバーなSEが鳴り響くという、とんでもない世界観の作品が並んでいた筈だ。

私は、音楽作品とは一言で何か?と問われたら、「妥協と忍耐」と答えることにしている。実際、制作活動はこの連続である。一体何が楽しくてやっているのかと思われるほどである。自分の本当にやりたいことは中々出来ないものだ。

ところが、これには利点も存在する。
例えば一つのグループを長年継続した時だ。
一般に、活動年数が長くなりキャリアを積めば積むほどカリスマ性は高まり、ある程度自由な事が許されるようになってくる。活動歴がまだ浅い時期には、実験的な作品や自己満足的な作品はなかなか作らせてもらえないものだが、ベテランになれば可能になることも多い。
しかしそうなった途端、せっかく今まで一貫性を保っていたコンセプトや世界観があっけなく崩壊してしまうことがある。全てとは言わないが、そのような結果を迎えた事例を多々見てきた。あるいは、カリスマ的な地位を確立する以前から自分の好みを押し出し過ぎて、早々に何がしたいのか分からない有様になってしまうケースも存在するだろう。
一方、妥協と忍耐を心に掲げて創作活動に専念するならば、こういった崩壊は防げる筈だ。辛抱しただけの恩恵は十分にあると考えている。

別の例として、私がライブハウスで活動していた当時の話をしよう。ライブ本番の心得として「観客を楽しませるためには、まず自分が楽しまないといけない」というような言葉をよく耳にした。確かにこれは尤もな考え方である。
だが私の場合は、心の底から楽しみながら出演することはほとんどなかった。実際は、演奏にミスが無いように注意を払ったり、観客の反応を気にしたりで、それどころではないのだ。謂わば会社で仕事をこなしている時と同じような心境である。与えられた職務や課題に黙々と取り組むだけ。そこにはハイテンションで楽しいお祭りムードらしきものはない。
ところが、そんな心境でのパフォーマンスの方が、評判の良いことが多かったのだ。先程の創作活動の話と同様である。

これには深い意味がありそうだ。もしやこれが、仏教でいう「自我から離れた境地」ではないだろうか。自分というものを消して、与えられたものに無心で取り組む。まさに修行僧の境地。
そうして我を超越した瞬間に、妙(たえ)なる力が降り注ぎ、素晴らしい作品や演奏が具現されるのかもしれない…。
そんな考えを抱きながら『羅生門』の制作を進めていった。 

第3話につづく
次回更新予定日は 8月28日(金)