2022年1月1日

部活動、始まります!

こちらは学園催の部活動「音楽研究部」の発表の場です。
歌曲の詳しい解説や、中宮貞子の音楽論を掲載していきます。音楽研究部内には、器楽班、映像鑑賞班などがあり、各班の研究成果も発表されます。

本学園のカリキュラムと共に、こちらの部活動もご一緒に楽しみましょう😄

2021年4月30日

楽曲解説 『井戸水』 第2話 - 変貌

本来、親しみやすい和風トランスポップになる筈だった『井戸水』。
これを如何にしてホラー系のサウンドに変えていったのか、実際に行った工程をいくつか紹介する。

先ずはメロディの改変だ。Aメロとサビを無表情で棒読み的な作りにした。音階はヨナ抜きなどの馴染みのあるものから、古典的な律音階の方向にシフトし、音程変化も少なくした。
ホラー映画において、西洋では、「ワッ!!」と脅かして恐怖を掻き立てるものが多いが、ここでは日本式の、す~~っと、静かに密かに忍び寄る霊のようなものを表現するようにした。

次にコード(和音)だが、Cメロ(1:35-)を除くほぼ全域において、コードネームが付け難く、ポップスでは滅多に使われない進行となっている。主に半音階で移動し続け、威圧感や恐怖感、不可解な印象を与える効果がある。この技法は通常、メタル音楽のリフや、ホラー映画やビデオゲームの緊迫した場面など、特殊な効果を狙う場面でのみ使われるのだが、本曲ではそれが延々と鳴り響く。この時点でもう、ポップスともトランスとも認識しがたい曲調になってくる。

また、変拍子も随所に取り入れた。特に間奏部分(1:23-)では、ドラムは4/4拍子を淡々と刻むが、他の楽器は変拍子の譜割りで演奏している。こういったリズムの実体が掴みにくい複雑な構成により、聴く者を現実離れした感覚へと誘う。

そして効果音も数多く使われている。
和太鼓やお寺の鐘をイメージした音により和風ホラーの風情を演出しているが、加えて、曲中あまねく挿入されているのが「人間の声」だ。不気味な笑い声、呻き声、わらべ歌の女声、そして重々しい呪文の男声など。実は全て私が演じている。以前、実際のお化け屋敷でスタッフをやっていた経験があり、雰囲気作りに一役買っているのかもしれない。


さて、このようにして完成した本歌曲であるが、既発表曲とのギャップに「何だこれは」と困惑された方もいらっしゃるのではないだろうか?
だがこの曲もまた、本学園の理念の一端を担っているのだ。
人は非現実的で異様なものを体験し恐怖を感じることで、日常を忘れ、不安から解放されるという側面もあると思う。ホラー映画を観たり、お化け屋敷に行ったり、絶叫マシンに乗ったりした後の爽快感や達成感も同様であろう。
「頭の中を空っぽにし、音世界に没頭する」ことで、明日への活力へと生かしていただきたい。

ところで、先程のホラー化工程紹介では述べていない、最後の極めつけともいえる重要なものがある。
それは『雅楽』である。
我々日本人には馴染みのある音楽ではあるが、まだ詳しく知られてない部分や勘違いされている部分もある。
そこで次回は、この雅楽の正体、および本曲との関連について語りたいと思う。


次回更新予定日は、5月28日(金)

2021年3月26日

楽曲解説 『井戸水』 第1話 - 解離

作曲開始 2003年
Key=G♭マイナー

『キュートで ポップ、ほんのり ダーク』
これは、あるリスナーさんによる本学園の世界観の描写である。
私自身が想い描いたイメージが的確に言語化されており、とても気に入っている。実際のところ学園催の歌曲は、ほぼ全てがこの一節に沿った仕上がりになっているのだ。

ところが、このイメージから著しくかけ離れた曲が一つ存在する。
それが今回解説する歌曲、『井戸水』である。


一聴すれば、この異質さがお分かりいただけるだろう。「ほんのり ダーク」 どころの騒ぎではない。
だがメロディそのものには、実は結構キャッチーな部分もある。また、日本古来の音階で構成されているので、わらべ歌のような親しみやすさもある。
しかし曲調に関しては、ポップやキャッチーなどといった要素はかけらもない。異様そのものである。

なぜここまで、メロディと曲調が解離してしまったのだろうか?
実は作曲当初は、曲調もポップなイメージで作り始めていたのだ。歌曲『放課後』のようなトランスのビートを基調とし、その上に和風のメロディーを乗せていく予定だった。

一口に「トランス」と言っても、そこから更にジャンルは細分化される。中でも私が好きなのは、「プログレッシブトランス」である。特徴としては、トランス曲で多用される派手で毳毳しい音色はあまり使われず、基本的に無機質な音色とミニマルな効果音から成る。ダンスミュージックに特化せず、部屋でじっくり聴き込むという要素も持ち合わせている。
私の初期の構想としては、プログレッシブトランスのクールさを基調とし、和風情緒を取り入れつつポップなサウンドにまとめ上げるというものだった。
ところが完成してみれば、お聴きの通り。当初の計画とは全く違う仕上りになっているではないか!
一体何が起こったのだろうか。

その背景として、本曲をを制作していた頃の音楽シーンがあった。
コンピューターを使った音楽制作が一般に普及してきた時期で、インディーズアーティストが活躍できる場である音楽配信サイトの黎明期でもあった。
その中でも、日本最大の規模を誇ったmuzieという名のサイト(現BigUp!の前身)では、特にトランスミュージックが大盛況だったのだ。初心者でもとりあえずトランスを作って投稿すれば再生数が稼げ、ランクインするという事が頻繁に起こっていた。それらの曲中で奏でられるシンセサイザーを駆使した煌びやかな音色は私の心を掴み、この華やかなジャンルが盛り上がりをみせていることに相当ワクワクしたものである。自分も和風ポップなトランス曲を発表して、このブームに参加するぜ!と意気揚々としていた。

しかし、ランキングに並ぶ数々の作品をじっくり聴いているうちに見えてきたのは、これらはサウンドこそ派手ではあるものの、楽曲の構成としては凡庸であったり、作り込みが足りていなかったりするものが多くを占めているということだった。似たような曲がひしめき合っているこの状況に苛立ちすら覚えた。同時に私が抱いたのは、もしこのままの計画に沿って聴き易いポップなトランス曲を発表したところで、有象無象な曲たちの渦の一部になってしまうのではないか、という危惧であった。

ならばいっそ曲調を一変させて、おそるべき異次元的なサウンドを創り出し、このありきたりな流れに一石を投じてみるのはどうだろうか?というような考えをを巡らせ始めた。
そう、この時から、歌曲『井戸水』は異界に入ることとなったのである。

つづく

次回更新予定日は4月30日(金)

2021年2月25日

楽曲解説 『新学期』 第3話 - 贈与

あまり言いたくはないが、実は私はフォークギターがあまり好きではなかった。

それは、私がロックに魅了された最大の要因が、エレキギターのディストーションサウンドだったからだ。刺激的で未来感があり、これこそが俺が目指すべきサウンド!という気持ちで一杯だった。ロックを彩る絶対王者としての風格。だからあの頃は、ディストーションで奏でられる楽曲以外は音楽と認めない、とすら思っていたのだ。

もう一つには、個人的にはフォークギターの音色が、昭和の古びたフォークソングを連想させたということもあった。無論そういう世界観を否定してる訳ではない。むしろ日本が誇る文化の一つであると感じている。だがフォークギターによる弾き語りには、自分好みの威勢の良さや爽快さを見出すことは難しい。
当時は、そういった理由でフォークギターを敬遠していた。

だがそんな私も数年かけて、フォークギターの良さを徐々に知ってゆく。
最初のきっかけとなったのは、あるハードロックバンドによる全面アコースティックのバラード曲を聴いた時だ。そのバンドはエレキギターによる技巧的な演奏を売りにしていたので、このギャップには衝撃を覚えた。そして、そもそもがテクニカルギタリストの楽曲なので、フォークギターを使っていながら、その随所に従来のフォークソングとはひと味違うニュアンスが垣間見えたのだ。抜けが良く華やかな音色、そしてギターソロ。「ああ、こういうのも良いね♪」と素直に感じたのを覚えている。

その後自分自身でも演奏する機会があり、地味なイメージを持っていたフォークギターも、使い方や演出の仕方を少し変えるだけで随分印象が違ってくることに気付かされた。
フォークギターには、自然さや独特の深みがあり、他の伴奏に埋もれないのに、歌を邪魔しないという絶妙な性質がある。これはフォークギターにしか出せない音世界だ。エレキギターもクリーントーンにすれば、バラードでも使える静かなサウンドを奏でられるが、残念ながらこの点では及ばない。

他にも、フォークギターには優位性がある。それはエレキギターのように大掛かりなセッティングが要らないということだ。アンプもシールドも電源もエフェクターも、一切不要。
何処でも手軽に、ちゃんとした演奏が再現出来る。小規模なパーティーやストリート等、人前で軽く演奏したい時、また部屋での作曲時にもそれなりの演奏が直ぐ行えるのだ。これは大きなメリットである。
勿論、レコーディングの本番でも上質な音を奏でてくれる。
コンパクトなのに、機能的で効果大。エレクトリックを主体に演って来た私には、とても有能で優秀な楽器に思えた。

更に近年でも、特筆すべきことが起こっている。フォークギターを使っていながら、スラップ奏法やパーカッシヴな技法を駆使した超ハイテクな奏法でインスト曲を奏でるスーパーギタリストの登場だ。かつては歌の伴奏役としか捉えられていなかったのが主役の座に君臨する存在となり、フォークギターの既成概念が根底から覆されてしまった。そこにはもう、古くささなど微塵もない。最新鋭の楽器とすら言えよう。

このように、フォークギターに対する私の意識は驚くほどの変化をみた。とはいうものの、自ら購入するまでには至らなかった。やはり自分たちが演奏するジャンルはハードロックやテクノであって、アコースティックとは対極を成すといえるからだ。フォークギターへの理解は深まれども自分の管轄ではない、という認識だった。
だから学園催でも、アコースティックのギターを使うという意向は全く持たなかったのだ。

だがそんな中、とある方からフォークギターを頂戴するという幸運に恵まれた。
その方からは、それまでも学園催の歌曲を愛聴頂き、また色々と勉強になるコメントやアドバイスも頂いていた。
人生の先輩として仰ぐその方から楽器まで授かったことで、ついに思い切って『新学期』で採用してみようという気になった。「ここらで一度、フォークギターを使ってみなさい」という神からのメッセージではなかろうかと受け止めることにしたのだ。

長年の作曲人生を通じても、自分の作品でフォークギターを使ったのはこれが初めてだ。しかもこのようなテクノ感・ハードロック感全開の歌曲で採用するとは思ってもみなかったが、それも学園催らしさの一つかもしれない。曲のメインで奏でられる電子音やディストーションサウンドとの相反するギャップが、なかなか良い効果を生み出しているのではなかろうか。

なおこの贈られたフォークギターは、後の歌曲『井戸水』でも彩りを添えている。本学園において、最も異質といえる『井戸水』だが、次稿からはその誕生の物語を綴るとしよう。(完)


次回更新予定日は3月26日(金)

2021年1月29日

楽曲解説 『新学期』 第2話 - 構成

第1話で述べたように、新学期とは私にとって、複雑な思いを抱かせるものであり、また、そこからの気付きも得られるものだった。
成長・進化する為には、面倒な壁を乗り越える過程が必要だ。
時には不慣れな事に挑戦すれば、眠っていた能力が活性化し、自らを向上させてゆく。

歌曲『新学期』はこういった思いを込め、本学園の作品の中でも特に多様な要素から構成されている。今回は、活発に新陳代謝する細胞のようにめまぐるしく変化していく曲の構成について少々解説したい。


本曲では様々なジャンルを取り入れることにより、「環境の変化」を表現している。テクノ、ハードロック、アンビエント、そしてポップサウンドと、概ね四種類のサウンドが一曲の中で奏でられる。
テクノとロックを融合させるスタイルは、『修行僧』や『河原町』等でも採用している、いわば学園催の定型だが、今回はそこにアンビエントが加わり、コントラストをより際立たせている。

イントロ前半はテクノサウンドから始まり、突如ハードロック調に取って変わる。歌が始まるAメロではテクノサウンドに戻り、Bメロではまたハードロック。これは環境や心境が移り変わる様子を表現している。
ハードロックの箇所で鳴っているギターは、敢えてアンプ録りにした。フェンダーのかなり旧型のアンプを使い、「生感」というか、古風な、空気感のある音作りをしている。今回の題材である小学校生活に思いを馳せ、あの時代の純粋な気持ちに立ち返りたいという意図がある。

間奏では一転して、不思議な異空間に迷い込んだような世界が展開する。
一般に、賑やかな曲調の間奏といえば、華やかなギターソロ!が定番であるが、今回は敢えてアンビエントを採用した。スピード感を一気に落としたリズムの上に、静寂でホラーなひと時が展開する。この緩やかなリズムが象徴しているのは、校庭でぽつんと一人、ブランコに揺られている児童だ。チャイムが鳴り、「起立、礼…」の号令がかかる。もう授業が始まる時間だ。なのに児童はまだ、校庭のブランコで遊んでいる。変化する環境になかなか馴染めない疎外感や、気持ちの浮き沈みから来る心象風景でもある。

サビと間奏後のCメロは、一般的なポップサウンドだ。特にCメロは、アンビエントな間奏から再度、賑やかなバンドサウンドに戻る前の助走としての役割がある。
そしてこれらのパートでは、学園催としては異例のアコースティックギターも登場する。実は私は、本学園の歌曲に於いて、アコースティックギターの演奏は一切しないでおこうと考えていたのだ。 では、なぜ今回採用するに至ったのか?
次回はその経緯をお伝えする所存である。

(つづく)

次回更新予定日は 2021年2月26日(金)

2020年12月25日

楽曲解説 『新学期』 第1話 - 休暇

作曲開始 2003年
Key = Gメジャー
皆さんは、「新学期」という節目をどんな心境で迎えていただろうか。ワクワクしていた?億劫だった?あるいは特に何も感じなかった、という向きもあるだろう。
私はといえば、期待や緊張、そして憂鬱といった、相反した色んな感情が入り混じって、平常心を乱すものであった。

例えば新年度のクラス替えでは、気心の知れた面々とは離れて新たな顔合わせとなり、余所余所しい雰囲気が漂う。イチからまた友人関係を構築しなければならないのか、と前途多難な気分になったものだ。
また、長い夏休みが明けた二学期の初日は、急に現実に引き戻されるような強烈なギャップを感じずにはいられなかった。久々に会うクラスメイトに対しても、妙な照れくささがあったりした。

こんな具合に、私にとってはあまり心地の良いものではなかった新学期だったが、苦手意識を持ち続けるのは建設的でない。子供心にも、この節目の意義を何とか見出そうとしていた。そこで先ず気付いたのは、憂鬱な気分でいるのは最初のほんの一週間程度だということだ。すぐに慣れてきて、何事もなかったかのように、いつもの日常に戻るのである。

ただしこれは、自動的にそうなるわけではなく、本人なりにある程度の工夫や努力をした結果でもある。この居心地の悪さを何とかしたい!という思いが、学校生活を平常に戻してくれるのだ。そしてこのような経験は、何かしらのメンタル面における能力を鍛えることに繋がるかも知れない、と考えるようになった。
今後の長い人生において、それこそ幾度もの大きな環境変化が訪れるだろう。だから今は、その都度上手く対処出来るようになるためのトレーニングをしているのだ、と。

もっと言えば、「学校」という場所そのものも、単に学力を磨くだけの場所ではなく、人生に於いてもっと大切な何かを身につける為の場所なのだ、とも思うようになった。今でもそれは変わらない。この時代、もはや授業や勉強は殊更学校に集まらなくとも可能になったが、それでも学校には重要な意味があり続けるだろう。

私はこのように、新学期から大切な気付きを得ることができた。 それは次のステップへの試練であり、気持ちの切り替えを体感する時でもあり、人生の中の大きなイベントだと捉えるようになったのだ。

これらを踏まえ、『新学期』というタイトルを持つ本歌曲のテーマは、「新陳代謝」とした。
細胞が古いものから新しいものに入れ替わるが如く、気持ちを入れ替える、心機一転について歌っている。長い休みが明けて、久々に登校した時の気持ちの変化や心理模様、それに伴う精神性の向上の様子を描いたのである。
では、このテーマをどのように音楽に反映させていったか。次回、具体的に語っていく。

(つづく)

次回更新予定日は 2021年1月29日(金)

2020年11月27日

楽曲解説 『映写機』 第3話 - 想像

歌曲『映写機』の最終回は歌詞について語ろうと思う。
曲そのものは1997年に完成したのだが、歌詞はその二年前から書き始めていた。テーマは「イメージトレーニング」、略してイメトレである。この頃の私は、仏教哲学やヨガ、瞑想への出会いがあり、師事や独学によって日々研鑽を重ね、精神世界の面で転換期を迎えていた。ヴィジュアル系バンドを組んでいたこの時期に、およそヴィジュアル系とは程遠い世界観に浸っていたのだ。

一般的に「イメトレ」という言葉は、主に二通りの意味で使われているように思う。
一つは、スポーツ選手や演奏者などが、本番前に自分の動きを心の中で思い浮かべることによって再確認する「イメトレ」。パフォーマンスの向上が目的となる実用的なものだ。
もう一つは、いわゆる「引き寄せの法則」で用いられる、願望を実現させる為に行う抽象的な「イメトレ」で、本曲ではこちらをテーマとしている。

ご存知の方も多いかもしれないが、世間では願望実現に関する自己啓発本が多数出版されている。その多くが「鮮明なイメージを持てば願いが叶う」という系統のものである。
私もこういった書籍に何冊か触れたことがある。かなりスピリチュアルな視点で書かれており、夢があって楽しいものだと感じた。
確かに、鮮明なイメージを持つことには一定の効果はあるだろう。実際、イメージを持たずに何かを実現することは難しい。というより誰しも、事を運ぶ前には必ず、何かしらの想像はしている筈だ。世に出ている多くの啓発本の主旨は、より細部に渡って鮮明に・克明に想像することで、イメージを意識の奥深い領域にまで浸透させ、実現度合いを更に高めるというものである。

時に小説やドラマなどでは、イメージしたことがそのまま実現したりするが、これはあくまで空想の世界の話。我々の住むこの現実世界では、物理的な制約から逃れることはできず、イメージが即、具現化することはなかなか無い。
例えば、「ピザが食べたい」と思ったとする。そこで、部屋から一歩も動かずに「ピザが目の前に現れた」と鮮明なイメージだけをしたところで、実際にピザが目の前に現われてくれる確率は非常に低い。やはり、店に電話注文する、とか、友達に頼んで買って来てもらう等々、何かしらの最低限の「行動」は必要だ。

世間には「イメトレだけで夢を叶えた!」という人達も存在しなくはない。だが彼らも知らず知らずのうちに適切な行動が出来ており、その結果、夢の実現に辿り着いたという経緯がほとんどだろう。鮮明なイメトレは、実現へ向けてのモチベーションが上がったり、適切な判断力が身に付き、成功の確率を高める役割を果たしたと考えられる。やはり行動こそが、願望実現の要である。

【ЖД璃 υф 零δч】×2 times 何からはじめよう
【爬狸υΦ ЯДδёё】×2 times 今すぐはじめよう

思い立ったその時が最適な瞬間
さあ出かけよう
頭の中をグルグル廻る
夢と現実交ぜてスクリーンに映して
これは歌詞の前半部である。
「夢と現実交ぜてスクリーンに映して」、つまり頭の中で描いてるだけではなく、それを現実世界に投影せよ、と。行動に移すことを勧める、積極的で能動的な内容となっている。

一方、後半部の歌詞はこうだ。

【ЖД璃 υф 零δч】×2 times 何からはじめよう
【爬狸υΦ ЯДδёё】×2 times 今すぐはじめよう

自分らしさをそのまま吐き出し
さあ演じてみよう
あたしの中でつくり出す台詞
世間の発言には過剰に反応しないから
こちらは内向的な要素が主体となっていて、思考の重要性について語っている。
物事を実現させるには行動が必要ではあるが、逆に、実現しなくとも構わない事柄ならどうだろうか。夢や目標は必ずしも全て実現させなくて良いのではないか?特に行動に移すこともなく、空想だけを楽しむという世界観も在っていいのでは?というスタンスだ。

「夢は見るものではない、叶えるものだ」という言葉がある。しかし、「夢は叶えるものではなく、見て楽しむものだ」という考え方もアリだと思うのだ。実際叶えてしまえば「何だ、こんなものか」ということも多々あるだろうし、想像してるだけの方が余程楽しめるというものも沢山ある筈だ。何でもかんでも実現させるだけが能では無いと思うのだ。

ただしこれは別に、消極的になれ!と言ってる訳ではない。目標や夢の実現は、自分にとって最重要なものだけに一点集中させ、そこに全ての力を凝縮・活用し、あとの夢は空想として楽しみ、ストレス解消の嗜みに充てるというポリシーも、面白い生き方だと思えるのだ。勿論、空想だけに没頭し完全に現実逃避してしまってはいけない。だが時には、空想に思いを馳せ、癒しのひと時を過ごすのも良いものだ。


次回更新予定日は 12月25日(金)

2020年10月23日

楽曲解説 『映写機』 第2話 - 移調

前回は日本のヴィジュアル系について熱く語り、本歌曲制作に至るまでの経緯をお話しした。
さて過去にヴィジュアル系バンドで演奏していたこの曲を、リメイクする際に持ち上がった問題、それはキー(調)に関することである。
作曲時のキーはAmであった。

ギターを弾く人ならご存知かと思うが、Amキーでは指で押さえる必要のない弦、「開放弦」が出てくる。このため自由度が高く、開放弦ならではの奏法やハーモニクスを駆使したプレイ、トリッキーなリフや伴奏が可能になるのだ。
そもそもロックというジャンルは、ギター有りきといっても過言ではない。開放弦で演奏できることを条件に、曲のキーを決めるケースが非常に多くなる。逆にいえば、開放弦が使えないようなキーの曲はごく僅かなのだ。


そんなわけで私はこの曲を、バンドで演奏していた当時のキー、Amのままでリメイクするつもりだった。
ところが、学園催は女性ヴォーカル。元々男性が歌っていたこの曲を、女性が歌うとなれば少々低い。もちろん頑張れば歌えなくもないが、せっかくのちっぴのキュートさや明るさが生かされなくなる。本人からも、歌いにくいのでキーを上げたいという要望が出た。

普通ならここはすんなり、じゃあキーを上げましょう、となるのだが、今回はそう簡単にはいかない。なぜならこの曲は、キーを変えるとギターの開放弦が使えなくなり、ギターフレーズの自由度が大幅に制限されてしまうのだ。この曲はAmで演らないと、ギターが全く生きてこない。しかもヴィジュアル系バンドで演奏してきたこの曲は、ギターこそが花形である。ここは中々譲れないものがある。

しかし、ちっぴはC#mまで上げてほしい、と言うのだ。カラオケで言えば [+4] のキー変更である。
よりによってC#mだと!?この曲におけるC#mへの移調は、非常に嫌な選択となる。あのトリッキーで軽快な数々のプレイが全てお預けとなる上に、弾きにくくなるのだ。Amのままなら踊り狂うが如きギターフレーズの数々が、全てお預けとなってしまう。これには我慢ならない。

「俺は、C#m絶対反対!」
「あたしは、C#m大賛成!」

と、互いになかなか譲れない。ともあれ、対策を考えることとなった。


ギターにおいては、Amキーと同一の指の動きで弾きながら、C#mキー上の旋律を得る方法はいくつかある。うまくいけば、ギターは開放弦が使え、歌も歌いやすくなり、万事丸く収まるわけだ。

まず一つは、デジタル処理だ。原曲通りAmで弾いたものを録音し、その後コンピュータで音程を上げるというものである。だが結果としては、ギターの音質がかなり変化して、チープなサウンドになってしまった。効果音的に使うなら面白いかもしれないが、一曲を通してこれが鳴り続けるのは聴くに堪えない。むしろギターを原曲キーで弾きたいが為の悪あがきにも思えてきた。
他には、エレキギター用のカポを使う方法や、チューニングを下げる方法もある。試してみたが、いずれも音質の変化が著しい。片や軽すぎ、片や重すぎとなり、満足できるものにはならなかった。やはり+4のピッチ操作を違和感なく行うのは至難の技である。

ギターが変えられないなら、いっそのことヴォーカルのメロディを変えてみようか、という考えすら浮かんだが、さすがに無理がある。


紆余曲折の末、やはりここは回りくどいことは抜きにして、素直にC#mに移調して弾き直すのが妥当だろうという結論に落ち着いた。私も遂に観念するしかなかった。

とはいえ、実のところ、私はその少し前の段階で、C#mで弾き直すという方針でも良いか、という思いに変わりつつあったのだった。なぜなら学園催はハードロックバンドではない。テクノポップを主体としたグループなのだから、歌を主役にすべきなのだ。
私は元々ハードロック出身なので、どうしてもギター主体で考えてしまいがちなのだが、ここでロックギターの道理を通すのは場違いとなる。ましてや歌い手は女性。そのキュートさや明るさを前面に出す為にも、ヴォーカルに合わせたキーや演奏を優先するのが望ましい。

そして何より大きな理由となったのは、大抵の人達は、ギターに特段の興味を持って聴いてはいない、という現実だ。頑張って弾いたところで、どんなに技巧を凝らしたところで、うるさいと思われては意味が無い。特にポップスでは、もはやギターはバッキングの一部分という認識しかされていない。それが今日のギターの宿命であろう。

むろん演るからには、いつも一所懸命に弾く所存ではある。ただ、今まで抱いていたハードロックギターの概念や位置付けには、あまり拘らないでおこう、と考えを転換させた。そして私はC#mへのキー変更を決心したのだった。


そうはいえども、その当時は仕方なく渋々での変更であった。
だが実は、これで良かったこともある。

開放弦が使えなくなることで、まず演奏が控え目になる。原曲キーで演奏していた当時は、ギターが目立ち過ぎて歌が脇役となっている感があった。ハードロックバンドにおいては、それも演出の一つとして認知されていたものだが、テクノポップの学園催では少々よろしくない。
それが今回、ロックギター特有のガツガツした主張が軽減され、より歌声が際立ってきたのだ。

また、移調により手間のかかる奏法を余儀なくされることで、華やかさはなくなったが、シンプルでありながらも、重厚感のあるサウンドになったと感じられるのだ。これはなかなか、一種独特の聴きごたえである。ギター好きの人達には、ちょっと面白みのあるフレーズだと感じてもらえるかもしれない。
余計な装飾を削ったことで、ヴィジュアル系バンドで演奏していた当時よりもスッキリしつつ、純粋なヘヴィーさや疾走感が増している。

これらが積み重なることで、全体的な仕上がりとして、ロック調でありながらもロック真っ只中ではないという、独自性の高いサウンドが完成したのではなかろうか。


今回の制作では色々な学びがあった。それまでの自分の流儀を通すことだけが能ではないと悟ったのだ。私はいつも、妥協あってこそ良い作品が生まれる、という考えを持っているのだが、この歌曲では、それが如実に具現されたと思っている。


次回更新予定日は、11月27日(金)

2020年9月25日

楽曲解説 『映写機』 第1話 - 化粧

作曲開始1997年
Key = C# マイナー

この楽曲の原型が出来上がった1997年頃、私はヴィジュアル系バンドを組んでいた。当時のヴィジュアル系は、大きくは二つの方向性に分かれていた。主流となっていたのは、美しさを前面に押し出すものだ。そしてもう一方では、ホラー要素が強く、恐怖感を煽るようなバンドも存在した。私のバンドは当然、後者である。

ヴィジュアル系の発祥は80年代で、かつては「お化粧系」、「お化粧バンド」などと呼ばれていた。見た目が一番のウリだと思われがちなのだが、実は、ライブハウスシーンにおいては、音楽性や演奏力において非常に優れたバンドが多かったのだ。
中性的なルックスとは裏腹に、演奏ではハードロックやヘヴィーメタル、或いはパンクロックやグランジ等の、攻撃的なジャンルを基調としたハードなサウンドが絡み合う。そのコントラストが魅力となっていた。

こういった骨のあるバンドが大勢を占めていたにも関わらず、世間一般ではあまり音楽性には注目せず、TV番組などでもルックスばかりが取り上げられており、とても勿体無いと感じていた。私に言わせれば、むしろヴィジュアル系自体が、サウンド面において優れたカテゴリーだったのだ。

またヴィジュアル系は、日本発祥の、日本独自の、日本が世界に誇るカルチャーであると私は考えている。
もちろん海外にもヴィジュアル系に分類されるようなアーティストは存在していたし、実際彼らに影響されて日本のヴィジュアル系が確立していったとも言える。 しかし、私がそれでも「日本発祥・日本独自」だと思う理由は、その世界観とアレンジ力にある。日本人はしばしば、海外から取り入れたものを上手く消化し、練り上げ、再構築し、気付くと本家をも超え、更に発展した姿で世に送り出す、という能力を発揮する。車や電子機器などがその好例だ。
ヴィジュアル系も、まさにこうした経緯で独自に発展していったのだ。

元々は海外のグラムロック等を手本としていた筈だが、「元祖」と呼べる程の完成度で全世界を席巻し、今や海外の人々が熱烈に愛してくれているほどまで進化した日本のビジュアル系バンド。そこにはアニメや漫画などにもみられるような、奥深い世界観や物語性を追求する姿勢が反映されていると思うのだ。
そのあまりに広大な世界観ゆえに、サウンドの完成度があまり話題にならなかったとしたら、皮肉なものである。


さて私が組んでいたバンドにおいては、ホラー系でかつ、攻撃的で威嚇的な世界観をコンセプトとしていた。
サウンド面でも、メタル系のゴリゴリのギターリフやトリッキーなプレイを炸裂させ、ジャンル的にはインダストリアルと呼べるものだった。メンバーも厳つい男子5人組で、ツインギターであった。ちなみに私がバンド活動でツインギターを演ったのは、この時だけだ。

このツインギターには役割分担があり、私は先程述べたようなゴリゴリのヘヴィーリフ等の音楽的な面を担当し、もう1人はワーミーペダルを筆頭にありとあらゆるエフェクターを駆使し、効果音的な面を担当した。この2人のタッグで、ダークで重圧的でありながら、未来的でサイバーな世界が広がるサウンドを作っていたのだ。

この頃の私はまだ、電子音楽には携わっておらず、生バンドサウンド一色であった。だが、電子音楽への情熱は人一倍あったので、生楽器のみでの演奏にも関わらず、打ち込みのテクノグループかと思わせる程のサウンドを構築することに傾注していた。
なお現在の『映写機』も、その様子が伺える作りになっている。ハードロックでありながら、テクノの様相も見せる、というあの時描いたイメージが反映されている。

この曲は当時のメンバーからの評判が良く、またバンドのセットリストの中でも一番キャッチーな曲調だったので、演奏する機会も多かった。そういうこともあって後年、学園催でもリバイバルすることにしたのだ。
しかし、本学園でリメイクするにあたり、一つ問題が発生した…。

(つづく)

次回更新予定日は 10月23日(金)

2020年8月28日

楽曲解説 『羅生門』 第3話 - 初心

皆さんは「四神相応」という言葉ご存知だろうか。
これは風水の概念の一つで、平安京を築くにあたり採用された都市形成の考え方である。
四神とは中国の神話に伝わる方角を司る霊獣で、それぞれに対応する方角と地形が次のように定められている。

  • 朱雀 -(南)  池・湿地帯・窪地
  • 青龍 -(東)  川などの流水
  • 白虎 -(西)  大通り
  • 玄武 -(北)  丘陵・山脈

この考えに則り都市を形成すれば、永く繁栄すると伝えられている。実際、平安京は1200年もの長期に渡り都であり続けた。やはり何らかの力があると感じずにはいられない。

本歌曲が収録されているアルバム『陰陽師』は、平安京を舞台に 朱雀→青龍→白虎→玄武、と京都の街を南から北へ順々に巡る「ミステリーツアー」をコンセプトとしている。歌詞カードに記された地図を眺めつつ、それぞれの名所にまつわる12の歌曲を旅行感覚で楽しめる構成になっている。

羅生門は正確には「羅城門」と記し、読みは「らじょうもん」となる。羅城とは都を取り囲む城壁を意味し、その城壁の最南端の中央に設けられた門が、都への入口に当たる。いわば平安京の正面玄関、始まりの場所なのだ。

つまり本歌曲は、旅の始まりという重要な地点を担う歌曲である。
歌詞の内容も、何らかを習得する為には、あるいは後悔なく生きる為には、基礎が重要であると謳っている。



ところで、私の座右の銘の一つは、「初心忘るべからず」という格言だ。人生の中で様々な課題に取り組んでいると、壁にぶち当たることがある。そんな時にふと初心に立ち返ると、解決策が見えてくるのはよくあることだ。
しかし多くの場合「初心に返る」ことができるのは偶然で、意図的にこれを行うのは難しい。

一方、「始めよければ終わりよし」「終わりよければ全てよし」という諺もある。
どちらも大切で、二つで対を成すと捉えるのが妥当だとは思うが、もしどちらがより大切かと聞かれれば、私は前者の「始めよければ終わりよし」だと答える。

この諺の一般的な解釈は、

最初がうまくいけば最後まで上手く事が運ぶものだ
だから最初は慎重にとりかかるべきだ

というものである。
だが考えてみれば、誰しも初めてのことに対しては、おっかなびっくりで慎重にとりかかるのが普通ではないだろうか。わざわざ諺にしてまで戒める必要がないようにも思える。
一方、何度も繰り返していることは、手際よく行えるかもしれないが、そこには油断や慢心が潜り込み、思わぬ失敗に繋がる可能性もある。

人間というものは、ゴールのイメージはしやすい。自分の成功した姿を思い浮かべたり、最後の一手を気を引き締めてやろうという意識は容易く持てるものだ。
しかし、日常の中で毎日、「今日が初日だ」という気持ちで挑める者は数少ないだろう。多くは時と共に、成長と共に、初心を忘れてしまいがちである。特に成功の度合いが高いほど有頂天になり、重大な判断を誤ってしまうことだってある。

そこで私は、何かのスタート時だけでなく、事あるごとにこの諺を思い出し、いつも襟を正すという使い方が有効だと考えた。始めたばかりの「謙虚な心」で常に行動することにより、「終わりよし」に繋がっていく。まさに「初心忘るべからず」である。

どんなに達人になろうとも、毎日「始めよければ終わりよし」という、まるで今日初めてやるかのように初々しい気持ちで挑みたいものだ。退屈な基礎が一番重要なのだが、上達するに連れそれを忘れていってしまう。そうならない為にも、聴く度に思い出させる歌曲を作ろうとの思いから、この『羅生門』が完成したのである。(完)

次回更新予定日は 9月25日(金)