第1話では、作曲の経緯や音楽的な内容について述べた。それらに関してはまだまだ伝え切れないものはあるのだが、ここではタイトルについて少し触れたい。
この曲は、メンバー間では「テレパシー」と呼んできた。作曲開始当初(1991年)に付けたタイトルである。曲調は幾度ものアレンジ改変を経て変化してきたが、タイトルだけは当時のまま使い続けている。
海外版でのタイトル表記は "Telepathy" である。これをそのまま日本語にすれば、「思念伝達」「精神感応」などの四字熟語となり、本学園の三字熟語ポリシーには沿わない。一方、三文字の「第六感」は、大きな括りとしてテレパシーも含むことから、曲名として採用することとなった。
また、歌詞についてもお話しておこう。
こちらも曲調と同じく、制作開始時からはかなりの変遷を経ている。舞台は学校、教室での一幕となっている点は変わっていないが、当初はもっと普通の恋愛ソングに近かった。それが年月の経過と共に、より重いテーマが徐々に盛り込まれていったのだ。
その主だった変更はここ数年で大幅に行われた。作詞のクレジットが、「貞子+ちっぴ」となっているように、ちっぴと共に改作していった部分が大きい。元々私が作った歌詞の中で、改善の余地がありそうな箇所をピックアップしてもらい、彼女の意見をもとに改良していくというやり方である。二人で改良した部分や、ちっぴだけで改良した部分もある。
この方式での歌詞変更は、実は歌曲『不登校』でも行っている。いずれも私の視点だけで書かれた時よりも、女性の感性が加味され、柔らかさや可愛さ、優しさなどの要素が増し、良い仕上がりになったと感じている。今後もこの方式は度々採用していこうと思っている。
ここからは、そうして完成した歌詞の内容に関する話である。
もしテレパシーという特殊能力を手に入れたら、皆さんはどうするだろうか?普通では訊けないアレもコレも知りたくなるだろうし、実行に移す人達もいるかもしれない。
となれば、この曲のテーマはいわゆる人間の心の闇なのか、と解釈される向きもあるかもしれないが、主旨は他にある。すなわち、どんな優れた能力でも、濫用はせずに程々にした方が良いよ、ということなのだ。
思うに人生における失敗とは、途轍もなく大きな過ちを一発やらかして復活不能に…、というよりは、小さな悪癖がついついやめられずに、気付けば取り返しのつかないところまでエスカレートしていた、といったことの方が圧倒的に多いのではないだろうか。もしも超能力を手に入れてしまっても、後者のような結末を迎える可能性が高いと思う。
別に超能力でなくとも、現実的な事柄においても同様である。人間というものは、地位やスキルが少しでも高まった途端、つい油断したり有頂天になったりしがちだ。まあそれでこそ人間である、と言えなくもないが、出来れば避けたいところである。
そこで本歌曲は、「自身の能力が向上しても有頂天にはならぬように」と自制を促しているのだ。
歌詞にはもう一つ、メッセージが込められている。それは現代の情報社会への警鐘である。
インターネットが普及してからというもの、そこで行われている情報のやりとりは、ひと昔前からすれば、いわば超能力レベルである。この世の全てを知ることが出来るような錯覚さえ起こしかねない。
だが、やはり何事も程々である。ネット社会の悪影響の一つとして、知らなくて良いことを知ってしまう、ということがある。そこには様々なリスクがある。余計な不安を助長したり、不要な怒りを生んだり…。昨今問題視されているストレス社会の一因であろう。
「昔は良かった…」という年配者の口癖のような台詞があるが、私はここに言葉以上の重みを感じ、真実を含んでいるように思うのだ。
「古き良き時代」とはよく言うが、この歌曲を作り始めた1990年代初期は、日本全体が好景気に沸いており、みんな毎日がお祭り騒ぎのように盛り上がっていた。まだネットも携帯電話も一般化しておらず、現代から比べれば随分不便な時代であった。2000年以降に生まれた人からすれば、想像を絶するほど原始的な生活スタイルかもしれない。
それでも、人間自体はイキイキしていて、元気で、世の中全体に明るさがあった。情報伝達手段が限られていたからこそ、現代のような人間関係の問題やギクシャク感が著しく少なかったのも一つの要因であろう。知らなくて良いことを知らないままでいる特典とも言える。
現代は、やりたいことは何でも可能だと思える程の時代。ひと昔前なら魔法と思われたことが、今、普通に可能になった。これは本当に喜ばしいことであり、私自身もこの利便性を享受している。だが個人的には、かつての元気さや明るさが翳ってしまっているように見えるのが気になっている。そんな気持ちを抱きながら書いたのが、この曲の歌詞である。
第3話につづく
次回更新予定日は 5月22日(金)