2020年10月23日

楽曲解説 『映写機』 第2話 - 移調

前回は日本のヴィジュアル系について熱く語り、本歌曲制作に至るまでの経緯をお話しした。
さて過去にヴィジュアル系バンドで演奏していたこの曲を、リメイクする際に持ち上がった問題、それはキー(調)に関することである。
作曲時のキーはAmであった。

ギターを弾く人ならご存知かと思うが、Amキーでは指で押さえる必要のない弦、「開放弦」が出てくる。このため自由度が高く、開放弦ならではの奏法やハーモニクスを駆使したプレイ、トリッキーなリフや伴奏が可能になるのだ。
そもそもロックというジャンルは、ギター有りきといっても過言ではない。開放弦で演奏できることを条件に、曲のキーを決めるケースが非常に多くなる。逆にいえば、開放弦が使えないようなキーの曲はごく僅かなのだ。


そんなわけで私はこの曲を、バンドで演奏していた当時のキー、Amのままでリメイクするつもりだった。
ところが、学園催は女性ヴォーカル。元々男性が歌っていたこの曲を、女性が歌うとなれば少々低い。もちろん頑張れば歌えなくもないが、せっかくのちっぴのキュートさや明るさが生かされなくなる。本人からも、歌いにくいのでキーを上げたいという要望が出た。

普通ならここはすんなり、じゃあキーを上げましょう、となるのだが、今回はそう簡単にはいかない。なぜならこの曲は、キーを変えるとギターの開放弦が使えなくなり、ギターフレーズの自由度が大幅に制限されてしまうのだ。この曲はAmで演らないと、ギターが全く生きてこない。しかもヴィジュアル系バンドで演奏してきたこの曲は、ギターこそが花形である。ここは中々譲れないものがある。

しかし、ちっぴはC#mまで上げてほしい、と言うのだ。カラオケで言えば [+4] のキー変更である。
よりによってC#mだと!?この曲におけるC#mへの移調は、非常に嫌な選択となる。あのトリッキーで軽快な数々のプレイが全てお預けとなる上に、弾きにくくなるのだ。Amのままなら踊り狂うが如きギターフレーズの数々が、全てお預けとなってしまう。これには我慢ならない。

「俺は、C#m絶対反対!」
「あたしは、C#m大賛成!」

と、互いになかなか譲れない。ともあれ、対策を考えることとなった。


ギターにおいては、Amキーと同一の指の動きで弾きながら、C#mキー上の旋律を得る方法はいくつかある。うまくいけば、ギターは開放弦が使え、歌も歌いやすくなり、万事丸く収まるわけだ。

まず一つは、デジタル処理だ。原曲通りAmで弾いたものを録音し、その後コンピュータで音程を上げるというものである。だが結果としては、ギターの音質がかなり変化して、チープなサウンドになってしまった。効果音的に使うなら面白いかもしれないが、一曲を通してこれが鳴り続けるのは聴くに堪えない。むしろギターを原曲キーで弾きたいが為の悪あがきにも思えてきた。
他には、エレキギター用のカポを使う方法や、チューニングを下げる方法もある。試してみたが、いずれも音質の変化が著しい。片や軽すぎ、片や重すぎとなり、満足できるものにはならなかった。やはり+4のピッチ操作を違和感なく行うのは至難の技である。

ギターが変えられないなら、いっそのことヴォーカルのメロディを変えてみようか、という考えすら浮かんだが、さすがに無理がある。


紆余曲折の末、やはりここは回りくどいことは抜きにして、素直にC#mに移調して弾き直すのが妥当だろうという結論に落ち着いた。私も遂に観念するしかなかった。

とはいえ、実のところ、私はその少し前の段階で、C#mで弾き直すという方針でも良いか、という思いに変わりつつあったのだった。なぜなら学園催はハードロックバンドではない。テクノポップを主体としたグループなのだから、歌を主役にすべきなのだ。
私は元々ハードロック出身なので、どうしてもギター主体で考えてしまいがちなのだが、ここでロックギターの道理を通すのは場違いとなる。ましてや歌い手は女性。そのキュートさや明るさを前面に出す為にも、ヴォーカルに合わせたキーや演奏を優先するのが望ましい。

そして何より大きな理由となったのは、大抵の人達は、ギターに特段の興味を持って聴いてはいない、という現実だ。頑張って弾いたところで、どんなに技巧を凝らしたところで、うるさいと思われては意味が無い。特にポップスでは、もはやギターはバッキングの一部分という認識しかされていない。それが今日のギターの宿命であろう。

むろん演るからには、いつも一所懸命に弾く所存ではある。ただ、今まで抱いていたハードロックギターの概念や位置付けには、あまり拘らないでおこう、と考えを転換させた。そして私はC#mへのキー変更を決心したのだった。


そうはいえども、その当時は仕方なく渋々での変更であった。
だが実は、これで良かったこともある。

開放弦が使えなくなることで、まず演奏が控え目になる。原曲キーで演奏していた当時は、ギターが目立ち過ぎて歌が脇役となっている感があった。ハードロックバンドにおいては、それも演出の一つとして認知されていたものだが、テクノポップの学園催では少々よろしくない。
それが今回、ロックギター特有のガツガツした主張が軽減され、より歌声が際立ってきたのだ。

また、移調により手間のかかる奏法を余儀なくされることで、華やかさはなくなったが、シンプルでありながらも、重厚感のあるサウンドになったと感じられるのだ。これはなかなか、一種独特の聴きごたえである。ギター好きの人達には、ちょっと面白みのあるフレーズだと感じてもらえるかもしれない。
余計な装飾を削ったことで、ヴィジュアル系バンドで演奏していた当時よりもスッキリしつつ、純粋なヘヴィーさや疾走感が増している。

これらが積み重なることで、全体的な仕上がりとして、ロック調でありながらもロック真っ只中ではないという、独自性の高いサウンドが完成したのではなかろうか。


今回の制作では色々な学びがあった。それまでの自分の流儀を通すことだけが能ではないと悟ったのだ。私はいつも、妥協あってこそ良い作品が生まれる、という考えを持っているのだが、この歌曲では、それが如実に具現されたと思っている。


次回更新予定日は、11月27日(金)